雑文9・北の大地への途(1995年3月函館スキーツアー)
「135 SKI & LIVE TOUR」は、1995年3月14日〜15日にファンが135と同じホテルに2泊または3泊(参加コースにより異なる)して、スキーやイベントを楽しむというもの。私はディナー&ライブのみ参加のDコースで参加申し込みをすることにした。企画の形からして参加人数枠もそれほど多くないうえに、泊まりのA〜Cコースの申し込みが2月11日から開始だったのに対して、Dコースは遅れて20日からの申し込み。申し込みは間に合うのか…それ以前に、函館近郊の人たちのための「特別設定」のコースに仙台から参加できるのか?不安を抱えながら申し込みの電話をかけました。ちょっとどきどきしながら住所を伝えると、何を言われることもなく申し込み完了。よかった〜。
スキーツアーの2日後の3月17日に、札幌のCD店で135がミニライブをするという話も伝わってきていたので、安いホテルをさがしてそっちに泊まって函館か札幌をうろうろしようかなどと考えていました。ところが、スキーツアーの翌日の午後に用事が入ってしまい、昼には仙台に戻っていなければいけなくなります。
会場から徒歩5分の最寄り駅であるJR大沼公園駅を最終電車が出るのは20時22分。ライブは18時半から開始なので、ライブの時間が2時間だとすると、途中で出てこなければならない。何かいい方法はないか…と時刻表を目を皿の様にしてみていきました。すると、大沼公園駅の隣の大沼駅だったら終電が21時45分で距離も1kmしかない!しかも、路線図をみると大沼駅−大沼公園駅のあいだはバス路線も走っているので、道路もある、はず。ぴったり線路沿いに道路が走っていないとしても、2倍の2km分、30分くらいかければ歩ける距離だろうと考えました。よし!帰りは1駅歩いて、大沼駅から乗ることにしよう。
当日、始発電車で仙台を出発。仙台から盛岡までは普通列車で、盛岡から青森までは時間短縮のため特急を利用します。青森から函館は青函トンネルを通る都合で快速で。函館からは運行本数が少ないため、バスに乗り換えました。大沼公園駅行きのバスだったけれど、帰途に必要な時間と道筋を確認するために、大沼駅で降りて会場まで歩いて行きました。太い道路がほぼ線路沿いに通っていたので、それほど迷うこともなく約15分で会場のホテルに着きました。
会場に着いたのが大体17時。ディナーの開始が17時20分。会場はホテルの宴会場というか、パーティーホールという感じの広い部屋で、私は壁一面の窓を背にした席でした。テーブルの上には、私の名前が書いてあるMEMORIAL CARDがあり、開くとワープロで印刷された歓迎メッセージと135のサインが入っていました。(…と思うんだけれど、もう1枚、135のロゴのカードも一緒に入っていた。どれがどうやってどこに置いてあったのか不明)
ちょっとだけ参加してすぐ帰るので、イベントに対してはおまけ参加のように思っていたので、こんな心遣いがとても嬉しかった。隣りの席の方も同じDコース参加で、やはり、最終電車の時間のために、ライブを途中退室しなければならないことを心配していました。そこで「1駅歩きませんか」と誘って、一緒に帰ることになりました。
ディナーというよりは『旅館の夕ごはん』な食事をとっていると、マネージャーさんが帰る時間を訊きにきてくれました。そんなことまで気を遣ってくれるなんて、とまた驚きつつ「21時20分くらい」とお伝えしました。このときに、コンサートの後135メンバーと写真を撮ってもらえることを知らされました。それなら、もっと気をつかった服をきてきたのにー!!移動に楽なことを考えた服装だったので…(^^;
近くの席の方々と話をすると、名古屋や東京などいろいろなところから来た方がいらっしゃいました。あらためて、すごいなあ…と。何に感心しているのかわからないけれど、感心してしまった。全国に仲間はいる…んだろうな。しかし、そういう遠方からの方は、当然宿泊するコース。Dコースの参加者は5人でした。話をしているうちに、5人みんなで1駅分歩くことなりました。
ライブ会場は、食事をした部屋の隣りの部屋でした。そちらに、18時20分くらいに移動しました。ライブの席は、Dコースはまとめて最後列。といっても、40人強で4列くらいしかないからステージは近い!
18時30分過ぎ、部屋が暗くなって後ろから135が部屋に入ってきた!ほとんど真っ暗になっていたためか、隣の方のイスに本田さんがつまづいてた。
ライブのはじまりはその本田さんボーカルの曲が3連発。“flowin'〜”、“Deepest Of My Heart”、“泣いてみればいい”。135で、初めてだったという椅子に座っての3人だけのアコースティックなステージ。すごく穏やかな包み込まれるような気持ちで過ごしたライブだった。
MCでは、メンバーがアメリカにいたときの話〜、スキーの話、物忘れの話などなど。
WEST WOOD時代に歌ったポコの曲、“スカボロフェア”
この辺りのMC。3人がアメリカにいた間、梶原さんが音符マーク入りの名刺を渡されたので「やはり」と自分の方からも電話番号を渡した。その後、嵐のように電話で家へのお招きの誘いがくる。結局、梶原さんのみ行くことにした。すると、ビキニパンツで「WELCOME〜」ゲイのひとだった。梶原さんは「I am BUSY!」と逃げてきたとか。ホントに真っ青になって帰ってきたもんねという高木さん。本田さんは、忙しいなら行くなや(^_^;
おなじくアメリカにいた頃、有名なミュージシャンのコンサートに行った。市街地から2時間以上かかる会場で、開始は20時。開始時間には間に合ったけれど、最初は前座さんが1時間。さらに、前座さんその2が1時間。
ようやく本命のステージが始まったのが、22時10分で、終了が22時45分。家に帰ったのは、日付がかわった1時30分。
アメリカのコンサート会場は広い、の話。コンサート会場も広いし、駐車場も広い。5万台もとめられるくらい広い。すると、当然、自分の車の場所もわからなくなる。コンサートの時間より車を探す方が時間がかかりかねないので、自分の車の近くでスイッチを入れると車から音が鳴る装置があったということ。ところが、大勢で同じ事をするので、いたるところで音がして結局、自分のくるまがどこかわからない(笑)。
札幌は久しぶり、の話。WEST WOOD時代にはよく札幌にきたとか。初めてのときに谷村新司さんに「大阪弁は使ってはいけない」と忠告された。いまだに大阪弁が抜けないのに当時は上京して2年くらいしかたっていない。楽屋では「こんばんは」の練習ばかりして、曲の練習ができなかったとか。
もの忘れの話。最初の2曲くらいで歌詞を間違えたり思い出せなかったのか、梶原さんがときどき苦笑いをしていた。「最近もの忘れがはげしい」と言いつつ、次にやる曲目を忘れていてしばし悩む。本田さんは前の曲からそのままでパーカッションの位置、高木さんは楽器をとろうとずに見守っている(笑)。
曲名は思い出したようですが、そこからもの忘れの話になってしまった。「覚えているはずのことを思い出せないことってあるよね」と梶原さんが言うと、高木さんは「そういうの好き」なぜならば、のど元まで出かかって思い出せなかったものがポン!と思い出せた瞬間が気持ちいいから。なるほどー。それに対して本田さんは、一人のときに思い出せたりすると、だれにも言えなくてさみしくなるので、つい、だれかに電話してしまうとか。
135の曲を外国の方がカバーされていると言う話。カバーされることが一番多いのは、もちろん“我愛イ尓”。テレサテンさんをはじめとして、30人くらいの方々がカバーされているらしい。らしいというのは、大概が無断借用だから(汗)。メンバーの友人の方やファンが見つけて知らせてもらって、カバーされたといういことを知るというパターン。使用許可を求めてくる方も、実際に歌った音源を送ってこられることはないらしい。
最近、“ジャパローレ”のカバーをしていいか許可を求められて、そのときに曲名のスペルを尋ねられたということ。ジャパンとフォルクローレをあわせた造語だからね。ということで、次の曲は“ジャパローレ”。つまり、忘れていた曲は“ジャパローレ”だったらしい。